何時だって一石二鳥を狙って生きているので急遽決まった2泊3日道南旅行もそれだけでは終わらないのだよ。
妻の実家のある秋田にはもう35年位通っているけど青森まではさらに200kmあって、中々行く機会がない。今回フェリー乗り場に向かって青森ICを降りたらすぐに「三内丸山遺跡」の看板があった。こんなに近いんだ。初めて知った。
函館からの帰り便の12時頃出航する便が満車で、その前の便にしたので、青森到着は13時ごろで、遺跡観光の時間が取れた。
秋田・青森など北東北と北海道道南の縄文遺跡は、ちょっと前に「世界遺産」に登録されている。この遺跡の価値を見てこようという魂胆である。
で展示施設の外観とアプローチにまずは感心。
外構工事屋だったしタイル屋だった私。この建屋のデザインを任されたら、自分もこうしたろう、という「土系のタイル」を多用したデザインだった。
幾つものテクスチャーと色のタイルを使って地層を表現
土間も土系のレンガブロックを種類を変えて埋め込んで、地層と埋蔵物を表現している
この地域の縄文遺跡が世界遺産として価値が高まったのは、相当長期間(1万年以上)にわたって採取生活共同体が継続され、それは周辺環境を改変せず循環型共存社会であることが評価されたみたい。
実際遺跡の中に立って見ると、海も川も近く丘の上で日当たり良好、土器の材料の粘土も採れる。天災も少なそう、そして森は栗やドングリなど実が成る植物が周辺で植生保護されていた。
なんか採取生活って不安定なんじゃないか、と思っていたけど。捨てられたゴミの中からは各種魚類の骨、貝類、動物の骨、そしてクルミなどの木の実の殻や種が大量に見つかっているらしい。ここなら私でも暮らしていけるかも。
「ムラ」として共同生活ができれば、あるものは魚を捕りに行く、あるものは獣を、あるものは機をおり、土器を作る。そして季節によって食料を変えて、あるいは貯蔵して・・・。
縄文人は、意外に食うに困らず、案外リッチな食事をしていたかもしれないなあ、と思うのだ。
実際弥生時代が先行していた西日本から稲作が入ってきた縄文後期。増水かなんかで田んぼが埋まってしまったけれど、再興しなかった遺跡もあるみたい。それほど採取生活のほうが良かったのだろう。
それにしても・・・・この地で見つかっている黒曜石(矢じりやナイフの原料となる天然のガラス石)が北海道オホーツク沿岸の紋別産ということが分かっているらしいのだけど、馬車はもちろん荷車さえないこの時代。石などはどうやって距離を運んだのだろう。千キロ??近くはあるよな。津軽海峡もあるし・・・・・縄文人の交易はどうなっていたのだろう??疑問は尽きなかった。前に行った伊豆の神津島も黒曜石が採れるけど、やっぱり広域に使われていたみたいで、丸木舟であそこまで行く???現代の船でも10時間位東京からかかるんだけど・・・・。
ランキングポイントアップのため記事が参考になったなら、テラ銭代わりに下のバナーをクリックしてくださいませ。毎度のご協力お願いします。

ランキングポイントアップのため記事が参考になったなら、テラ銭代わりに下のバナーをクリックしてくださいませ。毎度のご協力お願いします。
コメント