修験道総本山のご本尊開帳

LIFE

そんなわけで、昨日の出発地 吉野の金峯山寺に戻ったのは。4日の午後3時過ぎだった。何とか詣でることが出来そうだ。

 

私はもの心ついた時から、宗教ってなんだろう、仏教ってなんだろう、お坊さんが読む御経ってどんな意味があるんだろう、????と何十年も考えてきた。

仏教がどうあるべきか、ということではなく、葬儀屋になっているんじゃないか、という批判でもなく。宗教と自分の人生の関係性が未だに確定していない、ことが課題なのだ。

人間は傲慢で、このちっさな惑星の中でしか生きられないのに、殺しあったり、自然を破壊したり、炭素を使いすぎたり、酸素不足になったり、自死への道を突き進んでいる。

地球の将来について、私は大変悲観的だ。

少なくても自分は残りの人生は、自分と地球に正直に向き合いたいと思っている。

だから自然の営みに畏怖を感じ、流れに従い、その鼓動を聞くことは、単なる山登りではなくて大切なこと。

そうしたなかで、日本の山岳地帯に残る「修験道」という「宗教」は、人間の本質的(原始的)宗教感に近く何となく自分の指向に重なっているのかな、という漠然とした捉え方があった。

今自分で「宗教」と言ったが、正確には生きる道を指し進めるという「哲学」だ。仏教もキリスト教も、元々の宗主の教えは宗教でなくて。生き方の教え=「哲学」であったと思う。伝承が進むうちにいろんな枝葉や神格化が添付され進んで「宗教」になっていく。

もとえ

 

平易に言えば、大自然の中で、身体一つ置いてみれば、自然の偉大さ、怖さそして一人の人間の小ささがわかってくるわけで。そのうえで、それを伝える、守る、時には乗り越える、また自分の限界を超越する力を得ようとする。それが修験道の原点なのかな・・・と思うし、自分の哲学と重なっているのかな、と。

勿論仏教が日本に入って来たとき在来の宗教と混ざり合って「役行者」が現れた。それに続いて多くの修験者たちが、呪術的に病気を治すとか、呪いをかける、雨を降らせる等々超人間的なパワーの会得を求め山に向かったに違いない。

私も含め、そんなパワーを期待して山に向かう現代人は少ないだろうけど・・・。自然の力、大地の声を聴けるよう、感じられるよう対応力を付けようと山に向かう人は私だけではないように思うのだ。

 

そんなことが、私と修験の位置関係。

 

で、総本山 ご本尊に向かった。

 

今述べたように、私は自然界の中にこそ目に見えぬ神仏がいるので、偶像などは二の次だと思っている。

素晴らしい国宝だ、という仏像には、ぞの造形美は感じても、宗教的な神々しさというのは実は感じたことが無かった。

そして金峯山寺のご本尊に初見した。

金剛蔵王大権現

それは始祖・役行者「エンノオヅネ」が山上で祈り出したと伝わる姿。

その姿態を伝えるために、山桜の幹に彫り上げたと伝わる金剛蔵王大権現。

5mあまりの巨大な仏像は3体、「阿修羅」以上の恐ろしい形相、そして身体は青鬼のごとく真っ青に染められていた。

 

本来は如来さまや菩薩様なのだけど、現世の汚れや混迷に怒り、末法の世を憂いて降臨された御姿なのだという。

 

これは1300年経った今でも降臨していただきたい、と思った。これは凄い迫力です。

 

恥ずかしながら コウダ史上初めて、仏像を神々しく、かつありがたく拝みました。

ご本尊の前には、半畳ほどの畳が8枚敷かれ、四方が障子で区切られておりました。案内の方によれば「懺悔の間」だそうです。そのスペースをお借りしてご本尊様を見上げました。

自分でも自分が信じられませんでした。

涙があふれてきました。

(↑写真はネットから拝借)

64年間で初めて仏像に心が晒されるのを感じました。

ランキングポイントアップのため記事が参考になったなら、テラ銭代わりに下のバナーをクリックしてくださいませ。毎度のご協力お願いします。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました